2021年5月10日(月)
物心ついた頃、神奈川県横浜市の中区に住んでいました。
小港と言う所にある、公団住宅です。
(広い意味では、本牧地区に分類されます。) 当時(昭和30年代)は、まだ、日本のいたる所に戦争の爪痕が残っていたと言えます。 (日本が連合軍に無条件降伏したのは、昭和20年8月のことでした。) 横浜も例外ではなく、市内の一等地の殆どは、アメリカ軍(進駐軍)に取り上げられ、様々な米軍用施設が作られていました。
本牧では、将校用の住宅や「PX」と呼ばれるレジャー施設、ショッピングセンター等ができていました。
(写真は、当時の「PX」です。)
将校用の住宅地には、カラフルな住居と、芝の植えられた広い庭がセットになっていました。 スーパー等は、実にきらびやかな別世界のように見えました。 「PX」の敷地内には、広い野球場かアメフト用のグラウンドもありました。
カッコいい外車も、沢山、走っていました。
(日本人は、その中を路面電車で移動していました。)
米軍施設はどこもそうでしたが、バラ線と呼ばれる有刺鉄線に囲まれていました。
入口には、MP(ミリタリー・ポリス)の立つスペースもありました。 そして、「この敷地内では、アメリカ合衆国の法律によって処罰されます」と、黒い文字で書かれた白い看板があったので、子供心に恐怖を覚え、中に立ち入ることはできませんでした。
まさに、「治外法権」だったのですね。
(それでも、「あこがれ」があったので、匍匐前進で忍び込んだことがあります。)
アメリカ人は、皆、毛むくじゃらで大きかった印象があります。
そして、常に陽気でした。
(本牧では、開放的な気分を味わっていたのでしょう。)
歴史の一端を見たような気がします。
一度、学校帰りに、米兵から「ナッツ?」とか言われて、紙の袋をもらったことがあります。
家に持ち帰って、中の物を家族と食べてみましたが、初めて食べるナッツで、衝撃を受けました。
(まさに、「禁断の木の実」と感じた程です。) 今思えば、あれはカシューナッツだったのですね。
当時の日本には、落花生(ピーナッツ)はあっても、カシューナッツを食べる習慣がありませんでした。
脂肪分が適度にあって、メチャメチャ香ばしく、本当に感動的な美味しさでした。
こんな美味しいものを食べているアメリカに、日本は負けて当然だと、改めて思いました。
今はもう、横浜市内にあった米軍施設の大半は、既に日本に返還されています。
それを思うと、隔世の感があるとも言えます。
今日は、ちょっとほろ苦い、子供の頃の想い出の話でした。
遠藤雅信
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