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赤めだか


2021年10月20日(水)

去年、長期で入院していた時、病院の休憩室に貸出本の本棚があり、たまたま、手に取って読んだのがこの本でした。

出版元は、「扶桑社」です。

(一時、話題になっていた本なので、読むことができてとてもラッキーでした。)

書いたのは、落語家の立川談春です。

今、独演会で、最もチケットが取りにくいと言われる、人気落語家の1人です。

彼の生い立ちと修業時代が、この本では自伝としてまとめられています。

立川談春さん(本名は佐々木信行)は、1984年(昭和59年)に立川談志に弟子入りしました。

(高校中退だったので、17歳での入門でした。)

子供の頃は、競艇選手になりたかったそうですが、落語の世界に方向転換したのです。

しかし、当時の立川談志は、弟子を育てるには余裕がない状態でした。

立川談志は、所属していた落語協会に見切りを付け、1978年(昭和53年)に「立川流」を旗揚げしました。

これが、所謂、「落語協会の内乱」と言われた事件です。

当時、落語の興業は、都内に4ヶ所ある演芸場(寄席)がメインでした。

(新宿末廣亭・上野鈴本演芸場・池袋演芸場・浅草演芸ホールの4つです。)

定期興業のことは「定席」と呼ばれていましたが、1ヶ月を10日間ずつ3つに区切り、それぞれ、上席・中席・下席として、出演するメンバーを入れ替えていました。

(今でも、基本的に、そのシステムは継承されています。)

落語界には、落語協会と落語芸術協会と言う、2つの大きな老舗団体があり、「定席」は、昔からの伝統として、この2大団体が仕切っています。

それぞれの会場で、順番に、この2大団体が担当していくのです。

つまり、ある月の上席が落語協会なら、中席が落語芸術協会、そして下席がまた落語協会と言う感じです。

月によっては、片方の団体が多い月もありますが、その翌月は反対になり、また、演芸場も4ヶ所あるので、大体同じような回数に調整できます。

師匠である立川談志が、落語協会に所属していれば、「定席」に関わることとなり、そこが、弟子にとっての修行の場ともなります。

「前座」と呼ばれる入門間もないお弟子さんは、寄席(「定席」)に通いながら、先輩芸人の日常の世話等をしつつ、芸やしきたりと言ったものを学んでいきました。 また、寄席で雑用をこなしていると、食事をおごられたり小遣いをもらったりと、金銭的なメリットもありました。

(「前座」と言うのは、基本的に無給なのです。)

しかし、落語協会から脱退した「立川流」の弟子たちは、寄席に通うことができず、こうしたメリットを享受することができませんでした。

おまけに師匠である立川談志は、地方巡業等に忙しく、家に殆ど戻ってきません。

稽古は付けてもらえないし、先輩の芸も学べないし、小遣いだってもらえません。

ただひたすら、師匠の留守宅にいることだけが修行だったそうです。

おまけに、師匠の立川談志は破天荒な人なので、たまに帰ってくると、弟子たちに無理な注文を、いろいろ出したそうです。

(ほとんど、イジメの世界のようなこともあったらしいです。)

兄弟子として、立川志の輔もいましたが、彼は既に自分の芸を確立していて、弟子というより、別格の扱いでした。

まさに、地獄のような修業時代であったことが、行間にはうかがわれます。

こうした苦労が、ある意味、談春を立派な芸人に育てたのでしょう。 (勿論、脱落していった弟子たちも沢山いました。)

立川談春に遅れて弟子入りしてきたのが、立川志らくです。

志らくの場合、うまく立ち回ったのか、師匠の談志の覚えが良かったのか、こうした苦労を殆ど味あわなかったそうです。

今や、2人とも人気芸人ですが、当時の確執はかなり強かったと言えます。

芸人の書いた本なので、洒落の部分もあって、どこまで本当かは疑問ですが、内容としては、本当に面白く、興味深かったです。

    遠藤雅信

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